sabu18’s blog

我が子を諦めて心の整理をするためのブログ

5w0d 胎嚢確認

妊娠判定日BT7 陽性反応

胎嚢確認BT18  子宮内に一つ確認できました。

5w0d 12.5mm

 

双子かもしれないと思ってましたが一つ確認できました。

嬉しい気持ちもありつつ、手放しで喜べず。

きっとこの子は大丈夫だと思うことにしてますが、前回のこともあったし…。

 

でも週数とか分からなくなるのも困るので

前回入れていた妊婦のアプリを再度インストールしました。

胎児情報がサブのまま。

34w…と。

消すことはできず、これ以上の更新しない、という選択肢があったことに安堵しました。

これ以上は成長しないけど、消えないからホッとしました。

 

次の壁である心拍確認ができたら、前回NIPTを受けたところと同じところに予約を入れたいので

念のため予約できるか確認したところログイン画面に

あなたの週数は34w…の表示。

心拍確認ができたら連絡を入れて、予約できるようにしてもらおう。

 

今の妊娠のために色々とアプリを入れたり、準備したりしてると、

所々でサブがお腹に来てくれたことを喜んでいた自分が垣間見えました。

いまお腹にいる子のこともすごく嬉しいので、大事に育てていけたらいいなと思います。

つわりもサブと似てて、食べづわりかなぁって感じです。

妊活再開 判定日と夫の反応

10月に受精卵を戻しました。

 

判定日は3w3d

HCG 117

陽性判定を頂きました。

 

「数値が高いので双子の可能性があります

上のお子さんの時はHCG50ですね」と。

さらに先生から

「移植周期に夫婦生活はなかったんですよね」

と確認されました。

が…思い当たるのが一回だけ

しかも生理最終日付近…。

 

これは言わないとだめかな~と素直に伝えました。

そしたら「避妊してくださいって言われてましたよね

子宮外妊娠の可能性も出てきますよ

あなた看護師さんじゃないですか

避妊してくださいって指導する立場ですよ」

とピシャリ。

罪悪感あれど、私たち三年間頑張って一度もかすらなかったんですよ。

同じ体験してる人いないのかなって探したけど

見つかりませんでした。いない?いるよね??

 

先生には「すいません」と謝るしかなかったけど

ま、同じ立場なら私も怒ると思うな…いやぁすいません。

 

といっても、双子なら正直ラッキーと思ってしまう。

双胎妊娠のリスクが高いのは頭でわかってるけど。

 

あと教科書漁ったけど見つからなかった情報。

3wのHCGの基準値を知りたい。

検索しても出てこないし、いったいどれぐらいが基準値なの?

双子の可能性があるにしろどんな風に考えたらいいのか

全然わかりません。

 

旦那さんが病院に入れないにも関わらず

わざわざ病院の最寄り駅まで迎えに来てくれました。

双子かもしれない数値が出たと素直に話したら

(と言っても、お医者さんから怒られたのは後出しした)

旦那さんは

「前回のことがあるから素直に喜べない。

不安のほうが勝つ。

どんなリスクがあるか分からない。

前回のことがあるから一般的な、標準的な状態であってほしいと思う。

それから俺は避妊の話聞いてなかったから避妊するべきだったんじゃないかって。

不安しかないよ…」と…。

避妊の話は結構ずっと前にしていたと思うし

(妊活も2年となると当たり前にわかってると私も思っちゃった)

個人的な希望、気持ちになるけど、別に双子でも私はよかったんだよね。

とは旦那さんにストレートに言えず。

いろいろ質問責めにされたけど

「次の胎嚢確認できるまでは双子かどうかなんて確証はない。

今陽性判定が出たってことしか今わからないし、

今不安をぶつけられても私も不安が助長されるだけだからやめて」

としか返せませんでした。

二人で黙って帰路につきました。

サブのことがあって陽性判定またもらえたのに…なぜ…と思っていた。

旦那さんがポロっといったのが

「俺は上の子の時はすごくうれしかった、だけどあんなことがあったから。

万が一があったからやっぱりどうしても不安になっちゃう。

喜べないのはおかしい反応なのかもしれない。」と。

まぁ、ネットで探したらみんな普通きれいなことしか書かないから

喜んでる夫の様子とかしか書かないよね。

「そういう反応の人もきっといるけど、おかしいと思われるのがいやで

表には出さないのではないのかな」と返した。

奥さんの妊娠を望んでいたのに、リスクを言われて不安になり

喜びを感じられない男もいますから、

もし、そういう夫がいても安心してください。

変じゃないです。

自分が家族を支えないと。頑張らないとと旦那さんが思ってる証拠だと思った。

 

話は変わり、帰りながら天丼を食べながら涙が出た。

気が早いけど、もし本当に双子なら、

サブ帰ってきた?連れてきたんか兄弟を?笑

と考えがよぎってしまいました。

 

また胎嚢確認心拍確認と壁はあるので何とも言えませんが。

サブを諦めたあとの5か月後でした。

妊活再開(採卵、移植)

久しぶりの投稿になります。

手術から3ヶ月ほど経ち、生理が来て3回目にやっと採卵となりました。

 

6月から採卵の9月までは泣いたりしつつも普通の生活に戻りました。

7月は仕事をほとんどしませんでしたが、 8月から派遣社員としてゆるく働き始めました。不妊治療費用を稼ぐためです。

 

9月に複数個の受精卵を獲得し、凍結にまで至りました。

10月に移植をしました。

BT5にフライングをしましたが妊娠判定日までに結果は待とう、ということになりました。

 

妊娠していなければまた移植。

もし妊娠していたとしても、浮かれすぎないようにしようということになりました。

また妊娠できたとして、NIPTまでは気が抜けません。

 

出産予定日が近づくに連れ、季節が変わるに連れ色々な想いになります。

息子のことは一生想うんだろうな。

出産予定日までに妊娠してくれたらいいな…と思います。

術後の妊活再開では全くストレスのない環境を夫も実家も義実家も作ってくれています。

私がストレスによって不妊になっていたのではないかとみんな思っているかもしれません。

だから、すごい守られているし、楽しいことと幸せなことをたくさん経験しています。

感謝しかないです。子供を強く望んでるのは私なのでプレッシャーにはなりません。

 

また進捗があったら書きます。

手術後から今日まで

私の場合の話なので、ひとつのケースだと思ってください。
ただの心の整理の話なので、記憶違いがある場合があります。
 
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毎日泣いて過ごして、目が腫れているのかもうよくわからなくなっている。

全身麻酔以降のことはあまり覚えていない。

妹と毎日LINEしてるからそれを辿ればいろいろ分かるんだろうけど見返す元気もなく。

毎日心配して新生児のお世話があるのに連絡してくれてること。本当にありがたい。

母親に妹を生んでくれてありがとうって言っちゃったぐらい。

 

術後から今日まで関連性のないことや、順番がバラバラなことが浮かんでは消えての繰り返し。

今日が何日で何曜日なのか時間の経過も知りたくない。

毎日意識があることが苦痛。生理が来るまでスキップしてほしい。

継続して物事が今は考えられない状態になっている。

なので今回の記事もいろいろとばらばら。

 

++

 

今はサブを手元供養をしているが、私のほうの家の墓に一旦納骨することで話がまとまった。

旦那さんのほうのお墓にはまだ誰もいないのでサブがさみしがるのではないかと思って。

また然るべき時にサブの居場所を決めないとね。

 

++

 

もう妊婦じゃない、お腹に子供がいない。

毎日子供が大きくなることが幸せだった。

毎週月曜日になったら週数が重なって予定日が近づいてるのが楽しみだった。

12週を超えてくれて嬉しかった。

だけど…

 

もうずっと同じことで泣いてる。

あんなに一気飲みしていたオロナミンCは半分が限界。

炭酸強くない?旦那さんに半分飲んでもらった。サブが好きだったんだね。

気持ち悪さはない。

その代わり子宮収縮薬を飲んでいるせいか、下腹部がキュッとする。

サブが大きくした分、元に戻ろうとしているんだな。

出血はないが、内膜のようなものが少量付着しているときがあるのでサブが居た証拠がまだあるのがうれしい。

昨日、絨毛検査で穿刺されたあとを見つけた。まだ日が経ってないんだと思った。

 

++

 

近所の人と仲が良く、妊娠していることは話していた。

いろいろと食べれそうなものや、飲めそうなものを差し入れてくれたり、

体調をいつも気にかけてくれていた。

必要なものも買いに行くよ!と買い物に行ってくれた時もあった。心強かった。

術後外に出たとき、顔を合わせたので体調どう?と聞かれた。

「死産しました。毎日辛いけど、泣き出すと旦那さんが飛んで来てくれるの」と伝えたら

「めっちゃいいパパじゃん!!」と。

旦那さんのことをパパと呼んでくれた近所の皆さんに感謝。

サブは居なかったことにはなってない。私はママだし、旦那さんはパパだ。

話していてよかったなって、すごく思った。

 

++

 

私が骨壺をどこへでも連れて行きたくなると母に話したら

「ママもよーちゃんを連れて回りたい、心配なの」と言われた。

それから仕事終わりに私の顔を見に来てくれている。

母親ってやっぱそういうものなのかな。本当にありがたい。

 

++

悪阻とコロナのダブルパンチでずっと籠っていた部屋で一人で居られなくなった。

ご飯は美味しく食べられているし、ずっと泣いているわけでもない。

旦那さんが私の様子を見て、笑顔にしてくれようと、元気にしてくれようとしている。

泣いているときは背中をさすってくれる。

一人で寝ようとチャレンジするも泣いてしまって眠れない。

旦那さんがいないと安心して眠れない。

でも、旦那さんが居ればぐっすり眠れる。

 

今日は細身の男の子に帽子を渡して「暑いから気を付けるんだよ!」って遊びに行くのを見送った夢を見た。

夢の内容を覚えてることすごく少ないんだけど、そうかサブはとりあえず私の元から離れたのか。元気そうに走っていったなぁ。って起きて思った。

そういけば体型が旦那さんそっくりだったわ。何も言わず、走って行ってたわ。

 

うん、次の妊娠に向けて心身の調子を整えて、また治療費を稼がないと。

生理が待ち遠しい。妊娠できる体に戻ってほしい。

サブが帰ってくる場所を整えないとな。

火葬の日

私の場合の話なので、ひとつのケースだと思ってください。
ただの心の整理の話なので、記憶違いがある場合があります。
 
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2022/6/24 火葬

胎児は骨が残らないと思っていた。

だけど午前中、まだ炉が熱くないうちに火葬をしていただいた。

寄せ書きは読まなかった。

それはサブと書いてくれた人の関係性だから。

たとえ親でも、その関係性はサブとその人だけのものだと思った。

 

だいたい40分ぐらい経ったころ、スタッフに呼ばれた。

終わりましたと。

両あごの骨、肩甲骨、腕、足の小さな小さなお骨が残った。

優しくはいてもらって、小さな骨壺へ入れてもらった。

すごい早いお別れだった。

来てくれた皆さんにお菓子用意しておけばよかったな…

火葬はお金が結構かかった。六万ぐらいか。

葬儀屋にはお願いしなかった。

 

一緒に来てくれた皆さんには感謝している。

前処置に付き合ってくれたAちゃんも来てくれていた。

その後、大親友のAちゃんのお姉ちゃんと姪っ子に会いに行った。

ほとんど家族同然で、すごく心配してくれていた。

我が子を連れていき、いろいろお話させていただいた。

夫も一緒についてきてくれて、いろんなことを感じていたらしい。

 

そのあとは骨壺を持って、夫と付き合っていたころ同棲していた町を散歩した。

散歩して、ご飯を食べて、帰宅した。

手術当日

私の場合の話なので、ひとつのケースだと思ってください。
ただの心の整理の話なので、記憶違いがある場合があります。
 
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2022/6/24 手術当日

ラミナリアが痛すぎて電車で行けず

夫と母に付き添ってもらい、病院へ行った。

 

もう子供がいなくなると思うとつらかった。

半日入院となるため個室の病室へ案内された。

点滴をされ、術衣になりオペ室へ。

もう全然覚えてないけどたくさん泣いた。

本当は生みたかった。もっと育てたかった。

だけど…今は生きているのにとか。

泣いたまま内診台に乗った。

痛み止めを入れますね、喉の奥少し苦くなりますよ~と言われた。

時計が見えていてギリギリまで見てやろうと思った。

最後に見た景色は13時15分を示す時計。

 

気付いた時にはすべてが終わっていた。

病棟のベッドに横になっていた。

最後のエコー写真を看護師から受け取った。

可愛かった。自分の枕の横にエコー写真を置いた。

生児で私の顔の横にいてほしかった。

 

それから看護師に死産届について説明された。近くで待機していた夫を呼んだ。

夫と母が火葬場を探し、予約していてくれていたそうだった。

夫が死産届を受けとり、役所へいき火葬許可証をもらってきてくれた。

夫は「受付で新生児や赤ちゃんを抱っこしているお母さんだらけだった。

お腹の大きい人もたくさんいて、自分はなんでここで死産届もらってるんだろうって虚しくなった」と言っていた。

 

その日はそのあとどうしたのか…

もう覚えていない。

ばらばらになった胎児を受け取って車に乗って実家に帰ったのか

自宅に帰ったのかも、覚えてない。

ちらりとみた死産届の娩出時間が13時22分で意識を手放した七分後にお腹の子は出されたんだなと思った。

 

「火葬明日になったよ」と言われた。

明日火葬なのか…

家に帰ってから夫が段ボールで小さな棺を作った。

「寄せ書きしてもらおうか」と提案された。

小さな棺には、誕生を心待ちにしていた人たちからメッセージをもらうことにした。

前処置

私の場合の話なので、ひとつのケースだと思ってください。

ただの心の整理の話なので、記憶違いがある場合があります。

 

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6/22に大親友のAちゃんから連絡が入った

「手術日ってだれか付き添ってくれるの?」と。

 

術後のお迎えを旦那さんにお願いしていたので

旦那さんが迎えに来てくれる予定だった。

前処置についてはあまり調べたくなくて調べていなかったので

前処置も手術前も一人で行くつもりだった。

ラミナリアを入れて子宮口を広げるということはわかっていたので

痛いだろうな、帰宅したら動けないだろうということぐらいしか頭になかった。

 

今思えば胎児ドッグで異常が見つかってから

精神状態もぶっ壊れていたので正しい判断が出来なかったのか、

全部自分でやろうと気丈に振舞おうとしていたんだと思う。

両日ともに付き添ってほしいと旦那さんにお願いしたらよかった。

仕事をしていない自分が旦那さんの仕事を休ませるわけにはいかない、

仕事を休むのが難しいだろうと

一人で大丈夫感を出してしまったのはまずかったと思う。

 

Aちゃんがすごい心配してくれて両日ともに付き添うよ!と

言ってくれたので甘えることにした。

結果、それが功を奏した。

 

2022/6/23 前処置の日

この日のことはあまり覚えてないことが多い。

 

10時ごろ、絨毛検査の迅速結果が出た。

18トリソミー陽性 確定だ。

性染色体も出ましたが聞きますか?と言われたので

教えてもらった。

 

男の子だった。

 

 

その電話を切った後は泣き喚いた。

私の息子をこの後手放す。お腹から出す処置をする。

どんな顔をしていたんだろうか。もしかしたら生きられたのかもしれない。

可愛いと思う。生んであげられるかもしれない。

私の息子、私の息子なのにと大声で叫んだ記憶はあるが

あとはもうあまり覚えてない。

後から思い出すと滑稽だったかもしれないけど

壁にすがって膝を打ち、お腹を抱えて、おいおい泣いてるのは異常事態だったような気もする。

某魔法使いの映画の4作目の最後のほうで息子の遺体が返ってきたとき

「私の息子だ!私の息子だ!!!」と父親が泣き喚ていたシーンと

ほとんど一緒だったように感じる。気持ちが痛いほどわかった気がした。

 

ひとしきり泣いて、喚いた後は予定通り病院に向かった。

私は一体何をしにどこに行くんだろう。と頭の中でぐるぐるしていた。

本当にいいのか…?と。

でもお腹の中で亡くなる可能性も生まれてすぐ亡くなる可能性も

無事に生まれても医療的ケアが必要であることもわかっていて

それらに私が耐えられる気もせず、こうするしかないと納得させるしかなかった。

事実そうだったと思う。

 

病院に行くと私以外誰もいなかった。

スタッフの方以外誰にも会わなかった。

助産師さんから薬のことや手術の説明を受けたとき、

とても泣いた。本当は元気な子だったら産みたかった。

エコーは見せてもらえなかった気がする。

ラミナリアはすごく痛くて、しばらく動けなかった。

Aちゃんがすっ飛んで来てくれたけど、

私は歩くのもままならなかった。

「皆さん…歩いて帰っているんですか」と聞くと

「そうですね。歩いて帰ってますよ。痛みは少しずつマシになると思います」と

看護師さんに言われた。

 

正直、無理だろこれと思った。

証拠に帰宅途中、3回ほど痛みで吐いた気がする。

私の手をAちゃんがずっと握っていたが、

気が付いたら彼女の手が白んでいて、私の手の跡がついていた。

すごく痛くて痛みを逃したくて彼女の手をずっと握っていた。

スマホをいじる余裕もなくなり、Aちゃんに妹の連絡先を伝えた。

新生児のお世話で手がいっぱいで、時差があるはずの妹がAちゃんとうまく連携してくれたおかげで他の家族に連絡をつけることができた。

途中から従妹のKちゃんが駆けつけてくれて両脇から支えられていた。

痛みであまり覚えていないが、冷や汗もひどかったと思う。

道を歩いている最中にわざわざ車を横付けして

「急病人ですか?!」と聞いてくれたお兄さん。

ありがとうございました。

 

実家のほうが病院から近く、そちらへ一度帰宅。

実家についてからホッとしたのか、

過呼吸気味になり何か泣き喚ていた。全然覚えてない。

覚えているのはAちゃんがずっと私の手を握っていたことと

Kちゃんがしっかり私を抱きしめてくれて、泣いてくれていたこと。

Kちゃんが私のためにスイカを切ってくれたのに

半分を私の弟に食べられたこと。

悪阻で気持ち悪かったのかスイカを食べたら気持ち悪さが軽減された。

 

それでもラミナリアが痛すぎて気持ち悪いし、居心地も悪い。

痛みから解放されたいがそれは我が子を亡くすことにもなるのでとても複雑だった。

Aちゃんが旦那さんに連絡をしてくれ仕事終わりに旦那さんがすっ飛んで来てくれた。

まさかこんなことになっているとは…という感じだった。

 

夕方ごろに母親と母のパートナーが帰国。

帰宅した母は、痛みに唸り、気持ち悪くてビニール袋に頭を突っ込んでいる娘に

オムライスを作ってくれと頼まれて、すぐ作り始めてくれた。

 

不思議なことにオムライスを食べたら気持ち悪いのが消えた。

母のオムライスは世界一美味しい。お腹に我が子が居るうちに食べたかった。

これがばぁばの世界一おいしいオムライスだよって教えたかった。

 

その日は実家に泊まることにした。

Aちゃんは夜まで一緒にいてくれた。

ドイツで妹夫婦と新生児のお世話をして疲れているはずなのに母たちは私を心配してくれた。

赤ちゃんを抱っこすることができないはずの母のパートナーが寝入り際に寝室に来てくれた。

妹の赤ちゃんで抱っこを習得したらしい。

「寝てる赤ちゃんを抱きあげてちゃんと抱っこできるようになったから、また戻っておいで」とサブに言ってくれた。

すごくうれしかった。

 

その日は母と一緒に寝た。

サブをばぁばと一緒に寝かせたかった。

 

この日、私もサブもいろんな人に愛されてるんだなと強く感じた。